築地・明石町(居留地)を訪ねて
2012年9月20日(木)午前11時に築地本願寺正門前に集合しました。ヘボン塾有
志の会とヘボン顕彰会のメンバーなど、計15名です。幼少期をこの界隈で過ごした
という小暮幹雄氏の案内で、まずは本願寺の境内から出発です。
築地本願寺は江戸御坊と称されていた建物が、明暦3年(1657年)の大火によって
焼失し、そのがれきによって埋め立てられたこの地に移転して再建されましたが、
それも関東大震災によって焼失し、1934年(昭和9年)伊東忠太の設計により古代
インド様式の建物が、この地に建てられたそうです。境内には、歌人九条武子の
歌碑や、将軍家侍医も務めた眼科医の第一人者、土生玄碩(はぶげんせき)の墓
などもありました。
明石町に入り、浅野内匠頭邸跡、芥川龍之介生誕の地、聖路加国際病院の中に
ある、聖公会のチャペル、病院創設者のトライスター宣教師の胸像、蘭学事始地など
の記念碑を見てまわりました。学校発祥の地としては、立教学院、慶応義塾、女子
学院、立教女学院、雙葉学園、青山学院、女子聖学院、そして明治学院の記念碑を
訪ね歩きました。明治学院記念碑を囲んで撮ったものが、この写真です。1863年
(文久3年)ヘボン博士が横浜外国人居留地39番で開設したヘボン塾が母体となった
「一致英和学校」とブラウン塾等3つの神学塾が母体となった「東京一致神学校」、
そして「英和予備学校」の合併したものが、後の明治学院となります。
江戸幕府は1858年(安政5年)に欧米5か国と修好通商条約を結び、明治元年には
江戸の開市としてこの明石町地域を築地居留地と定めました。ここには海外からの
宣教師、医師、教師などが居住し、教会や学校などを開いて教育を行っていた影響もあ
り、洋風建築が建ち並び、異国情緒あふれる特別な専用区だったようです。
気温33度という炎天下を2時間ほど歩き、ようやく、新橋にある明治学院出身者の経
営する「はつ音」にたどり着きました。テーブルを囲んで、すしに舌鼓をうちながら、参加
者同士の親交を深めることができました。
(新倉勢子記)
次回は、10月10日(水)生麦事件発生現場と島崎藤村展見学会です。
午前10時30分 京浜急行花月園前駅集合