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明治学院大学ヘボン塾校友講座 ヘボン博士ゆかりの地 日光金谷ホテルを訪問

5月24日(木)私達ヘボン塾校友講座有志のメンバー13名はヘボン博士ゆかりの地で
ある日光金谷ホテルに行って来ました。当日は初夏を思わせる様な暖かい1日でした。
 朝9時30分、東武線浅草駅に集合し、10時発の特急スペーシアに乗り、快適な旅は
始まりました。2日前にオープンした東京スカイツリーの真横を通り、平日で殆ど貸し切り
の様な車中では話がはずみ、あっと云う間に東武日光駅に着きました。
 標高543mの駅前には「日本一の水」というキャッチフレーズの水が湧き出ていて
東京よりも少し涼しく感じられました。駅前からマイクロバスで送っていただき、日本
最古のクラシックリゾートと言われる、日光金谷ホテルに着きました。和と洋が
融合した独特の佇まいや、ホテルマンの最高のもてなしに触れ、天皇陛下、リンドバーグ、
アインシュタイン、ヘレンケラー他、国内外の要人に愛されてきたのも頷けました。
 この日光金谷ホテルの前身である金谷カッテージインを提言したのが、ヘボン博士と
いう事です。今から141年前の明治4年(1871年)日光を訪れたヘボン博士は
外国人という理由で宿を貸してもらえず困っていました。その時、金谷善一郎さんという
東照宮の楽職についていた方が、全くの親切心で、ヘボン博士を自宅に招き、泊めて
くれました。ところが無断で外国人を泊めた事が知られて、善一郎さんは東照宮から
破門されてしまいました。生活も困窮し、困り果てていた善一郎さんの事を知ったヘボン
博士は、「今後、日光を訪れる外国人が増えます。特に夏は東京や横浜から来るでしょう、
来年は,友人達も連れて来るから、出来るだけ部屋を用意するといいでしょう」と
外国人向けの旅館経営を提言しました。善一郎さんは、明治6年(1873年)外国人
専用旅館、金谷カッテージインを開業し、ヘボン博士をはじめ多くの外国人に利用され
ました。そして20年後、洋室30室を備えた日光金谷ホテルを開業することになります。
 ホテルのフロントには、ヘボン博士の立派な写真と説明が紹介されていて、とても
誇らしく感じられました。私達は、重厚な日光彫の美しいダイニングルームで、名物料理
の虹鱒のソテー、チキンクリーム煮(昭和40年代のメニューの再現)、クロケット(昔の
レシピ)から各自選び、金谷ベーカリーのパンと共に、春のスペシャルランチメニューを
堪能しました、1つのテーブルを囲んだ食事中も、ヘボン博士の偉業について、学生時代
の思い出、これからの明治学院の展望と話がはずみ、とても楽しい食事会でした。
 食後、「サムライハウス」として現存している金谷カッテージイン(老朽化の為、一般に
は非公開)を、明治学院卒業生には特別に見学させていただけるという事で、ホテル下の
神橋の横を通り,大谷川に沿って20分位歩き、ようやく到着しました。
敷地に入ると飛び石の上を歩いて、玄関に向かいます。水と緑の多い庭で、どの部屋から
でも,木々の緑と水の流れを眺める事が出来るように作られているそうです。家の入り口には
金谷侍屋敷SAMURAI HOUSEと彫られた天然木の板が掛けられています。
金谷家の遠縁の女性が,今も住みながら、管理されているとの事です。
 英国人女性イザベラ・バードさんが投宿した際の詳細は記録と印象を「日本奥地紀行」の
中で紹介しています。バードさんが宿泊した部屋の座卓には、当時の夕食サンプルが
セットされていましたが、当時宿が出したのは主にごはんとお茶のみで、おかずは、
宿泊者自らが作ったとの事です。洋服ダンスは扉に鍵が付いていて、下部は,ひき出しの
ように見えますが、内部はがらんどうで外国人の長身の衣服も掛けられるように工夫されて
いました。押入れの襖は,下段を開けると階下の部屋に降りられる、非常用だまし襖になって
いました。天井が極端に低くなっているのは刀を振り回すことが出来ない様にとの事です。
建物は、まさに武家屋敷ですが、その中でアームチェアやソファなど西洋家具が不思議に
とけ込んでいるように感じられました。
 玄関には、ヘボン博士のレリーフが飾られていました。ヘボン博士の生き方、考え方を
知れば知る程、奥が深く、明治学院初代総理として誇りに思うと同時に、その精神は、
いつまでも受け継がれていくべきだと思いました。
「ヘボンの子」として、これからどう生きて行くべきかを考える良い機会となりました。
今回の企画、準備をしていただいた皆様方、本当にありがとうございました。
(舎人 和子 記)